強力な接着剤ほど、いったん固まったら外れにくい。そんなイメージがありますよね。ところが細菌の接着に使われるタンパク質には、周囲の酸性度に応じて結び付きをほどく仕組みがあることが分かりました。
東京大学は2026年10月22日、接着タンパク質の一部「チオエステルドメイン(TED)」が、弱酸性の条件で標的から離れやすくなると発表しました。論文は10月21日に科学誌『Science Advances』オンライン版に掲載されています。[1][2]
面白いのは、細菌が新しい道具を作るのを待たず、接着を担う分子自身の化学反応で環境に応答できる点です。「強くつく」と「条件が変われば離れる」は、必ずしも矛盾しません。細菌の接着を入り口に、pH、タンパク質、化学結合の意外な関係を読み解きます。
アイキャッチと本文のイメージ画像3枚はAI生成です。実際の細菌・分子構造・実験装置を正確に再現した写真ではありません。図解はXyphaが作成した概念図です。
細菌の接着とは?小さな生き物にも「留まる道具」がある
水の中にいる小さな粒を想像してみてください。表面に触れても、何の結び付きもなければ、周囲の流れや揺れで離れてしまいます。細菌がある場所に留まるには、単に近づくことに加え、相手との間に付着を支える相互作用が必要です。
その役割を担うものの一つが、細菌の表面にある接着タンパク質です。タンパク質というと、筋肉や食品の栄養素を思い浮かべるかもしれません。しかし分子の世界では、物質を運ぶ、反応を助ける、相手を認識するといった、多様な仕事を担っています。

ここで区別したいのが「細菌そのもの」と「細菌が持つ分子」です。細菌は、一つの細胞として活動する生き物。一方、今回注目するTEDは、細菌の接着タンパク質を構成する一部分です。細菌全体に酸をかけて接着力を試した話と、取り出した分子の反応を調べた話は、同じではありません。
小さな部品を調べる利点は、複雑な現象を切り分けられることです。自転車のブレーキが利く理由を知りたいとき、街全体の交通を眺めるだけでは、部品のどこに力が働くか分かりません。分子実験も同じで、相手や条件を絞ることで、一つの仕組みを詳しく追えます。ただし、部品で確かめた性質が生きた細菌の中でどう働くかは、別途確かめる必要があります。
強い結合なのに離れる?TEDで分かったこと
今回の研究では、A群レンサ球菌の接着タンパク質SfbIに含まれるTEDと、ヒトのタンパク質フィブリノゲンとの結合を解析しました。TEDが作る共有結合は可逆的で、周囲が弱酸性になると解離が促進されました。遠縁のウェルシュ菌に由来するTEDでもpH依存性が確認されています。[3]
共有結合とは、原子同士が電子を共有して結び付く化学結合です。強いという言葉は、どんな条件でも永久にそのままという意味ではありません。化学反応の起こりやすさは、周囲の条件によって変わります。
たとえば、丈夫な留め具にも外すための操作があります。引っ張る力への強さと、特定の条件で外れる性質は、別の軸で考えられます。もちろん、タンパク質の中に人間が作ったボタンがあるわけではありません。ここでのたとえは、細菌の接着を「強いか弱いか」だけで見ないためのものです。
Binding to a target protein
Mild acidification favors release
概念図 / Conceptual schematic:丸は分子を区別する記号で、実際の形や原子配置ではありません。反応の傾向を示し、全分子が一斉に切り替わる意味ではありません。
分子が相手に出会い、結合し、再び離れる過程では、結合を作る反応と逆向きの反応を考えます。見かけ上たくさん結び付いている状態でも、条件が変われば、結合状態と解離状態の割合が変わることがあります。「可逆的」とは、このように逆向きへ進める性質のことです。
pHは1違うだけで10倍?数字の読み方
pHは水溶液の酸性・アルカリ性を表す指標です。国際純正・応用化学連合(IUPAC)は、水素イオンの「活量」を使って定義しています。活量は、単なる個数だけでなく、溶液中での実効的な振る舞いを表す量です。[4]
pH = −log10 a(H+)
| 記号 / Symbol | 意味 / Meaning | 単位・条件 / Unit and condition |
|---|---|---|
| pH | 酸性度の指標 / Acidity measure | 無次元 / Dimensionless |
| a(H+) | 水素イオンの活量 / Hydrogen ion activity | 標準状態に対する無次元の量 / Dimensionless relative activity |
| log10 | 10を底とする対数 / Base-10 logarithm | 活量の比を桁で表す / Expresses orders of magnitude |
数字の差を、そのまま普通の量の差として読まないのがポイントです。理解のためにpH 7とpH 6を比べると、活量の比は次のように計算できます。これはpHの定義から導く一般的な例であり、今回の実験結果を再現した計算ではありません。
a6 ÷ a7 = 10−6 ÷ 10−7 = 10
| 記号 / Symbol | 意味 / Meaning | 単位・条件 / Unit and condition |
|---|---|---|
| a6 | pH 6での水素イオン活量 / Activity at pH 6 | 10−6、無次元 / Dimensionless |
| a7 | pH 7での水素イオン活量 / Activity at pH 7 | 10−7、無次元 / Dimensionless |
pHが1下がると、水素イオンの活量は10倍になります。だから「pHが少し変わっただけ」と感じても、分子が置かれた条件の変化は小さいとは限りません。ただし、この10倍は接着力や解離速度が10倍という意味ではありません。反応の変化を数値で語るには、別に測定が必要です。
タンパク質は、なぜ周囲の酸性度に反応できるのか

タンパク質は、アミノ酸がつながり、立体的に折り畳まれた分子です。アミノ酸には種類ごとに異なる「側鎖」という部分があり、その中には水素イオンを受け取ったり、手放したりできるものがあります。周囲のpHが変わると、そうした部分がどの状態で存在しやすいかも変わります。
すると、プラスやマイナスの電荷を帯びる割合が変わり、分子内外の引き合い方、反発の仕方、水素結合などにも影響します。EMBL-EBIの教材は、側鎖の電離状態がタンパク質の構造・安定性・働きに関係することを説明しています。[5]
ここから分かるのは、pHを感じ取るために、必ずしも目盛りを読む装置や複雑な判断が必要ではないということです。分子は周囲の条件に応じた反応をします。その結果として、結合のしやすさや働きが変われば、外からは「環境に応答した」と観察できます。
ただし、一般論と今回の機構は区別しましょう。「酸性になると、タンパク質は何でも壊れる」という説明ではありません。また、どのタンパク質も同じpHで同じ変化をするわけでもありません。どんな化学基がどの場所にあるか、周囲にどんな分子があるかによって、応答は違います。
センサーという言葉も、電子部品だけのものではありません。温度で曲がる材料や、水分で膨らむ物質のように、材料の性質そのものが環境変化を動きへ変える例があります。分子の応答を考えるときは、「情報を読み取る機械」と「条件によって性質が変わる物質」の両方を思い浮かべると理解しやすくなります。
見えない結合をどう調べる?観察と推測を分ける

研究では、バイオレイヤー干渉法という光を使う方法で、分子の結合と解離をリアルタイムに追っています。[1]分子を一つずつ目で見て引っ張るのではなく、センサー表面で起きる変化を測定する考え方です。
実験の読み方で大切なのは、測ったものと、そこから考えたことを分けることです。たとえば「条件を変えたら結合の状態が変わった」という測定と、「生きた細菌が体内のある場所で、その性質を利用している」という説明では、必要な証拠が違います。
さらに、ある分子同士で成立した仕組みを、すべての細菌・すべての表面へ広げることもできません。道路の一地点で車の速度を測っても、街全体の交通量までは決まらないのと同じです。測定の対象、条件、そして結果が届く範囲を一緒に読むことで、ニュースを過大にも過小にも受け取らずに済みます。
よくある疑問:細菌の接着をほどけば感染を防げる?
酸性にすれば細菌は全部はがれるの?
今回の結果から、そうは言えません。接着に使う分子や相手は多様です。特定の分子で確認したpH応答が、すべての菌の付着に当てはまるとは限りません。この記事は、酸性の液体を使う消毒法や治療法を示すものではありません。
「離れる」ことは、細菌が死ぬこと?
接着分子と標的の結び付きがほどけることと、細菌の生存は別の問いです。分子同士が離れたという結果を、そのまま殺菌効果と読み替えることはできません。研究の対象が接着なのか、増殖なのか、生存なのかを区別すると、見出しからの誤解を減らせます。
新しい薬ができたというニュース?
今回の発表は、細菌の接着を担う分子の性質を理解する基礎研究です。治療の有効性や安全性が確認されたという発表ではありません。分子の仕組みが分かることと、実際の治療に使えることの間には、ほかにも検証すべき段階があります。
まとめ
細菌の接着を考えるとき、「強くつく分子は、ずっと外れない」とは限りません。今回の研究は、TEDというタンパク質領域の結合が、周囲のpHによってほどけやすくなることを示しました。
pHは対数の指標であり、小さく見える数字の変化も、分子にとっては異なる環境になります。結合の強さと可逆性、分子での実証と生きた細菌での役割を分けると、ニュースの面白さがいっそう鮮明になります。
出典・関連記事
- 東京大学工学系研究科:細菌の接着を担う分子に、結合をほどくpHセンサーを発見(2026年10月22日発表)。研究の事実確認はこの公式発表を中心に行いました。
- 東京大学医科学研究所:論文情報。Tokunaga Y.ほか、Science Advances、2026年10月21日オンライン掲載。原著:Chemically encoded pH-tunable covalent adhesion by a bacterial thioester domain。出版社本文は取得できておらず、未読の本文・補足資料にしかない数値は使用していません。
- University of Tokyo:English research release(2026年10月22日)。
- IUPAC Gold Book:pH。pHの定義を参照。計算例はXyphaによる独自計算です。
- EMBL-EBI:Ionisation and pKa values。一般的なタンパク質化学の説明に参照(CC BY 4.0、説明は日本語で再構成)。



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